城下町が好きな私は、一昨年は会津若松(福島県)、昨年は鶴岡(山形県)を訪れました。そして今年は萩(山口県)に行きました。
戊辰戦争で最も激しく官軍に抵抗した会津藩と一番最後まで官軍と戦った庄内藩という東北から、まさに官軍の中核であった西国の長州藩へと行き先が変わりました。
私はお城よりも武家屋敷やその町並みが好きで、それが一番残っている城下町というのが萩行きの理由でした。
私が想像していた以上に、城下町独特の鍵曲(かいまがり)や長屋門と黒板塀、白壁や築地塀がたくさん残っており、大変嬉しく思いました。これらは旅行ガイドブックなどでも写真入で紹介されているので、今回は私が特に印象に残った歴代藩主の墓所と幕末明治に活躍した長州藩の人々について書きます。
明治初期の萩城
現在の萩城址
※萩城は、明治7年(1874)に入札によって払い下げられ解体されたが、その時の天守閣の入札価格は1,013円だったとか
①歴代藩主墓所
毛利家歴代藩主の墓所は、2ヶ所に別れていますが、その規模に驚き、感動しました。
関が原の役での敗戦により、中国八カ国120万石から周防・長門二国36万9千石に減封されたとはいえ、さすがに島津家や伊達家などと並ぶ代表的な国持大名の風格を感じさせられます。
長州藩の藩政時代の領内人口は、60万8千人(明治4年)、家臣の数5,670人(明治元年)でした。
これは我が上田藩の凡そ10倍に当たる規模です。
また長州藩の表高(名目上の石高)は36万9千石でしたが、内高(実際の石高)は98万8千石で、これは加賀藩の135万石に次ぐものでした。(明治初年のデータ)
●大照院
大照院には、初代藩主の毛利秀就(ひでなり)以下、2代から12代まで偶数代の7藩主とその夫人をはじめ、秀就に殉死した7藩士の墓もあります。
殉死者たちの墓を前にして、乙川優三郎の直木賞受賞作の『生きる』を想いました。
藩主夫妻の五輪塔形の墓は高さ4.5メートルもある大きなものですが、それぞれ夫妻毎にペアで仲良く並んでいて何となくホッとさせられました。
藩主の墓の前には家臣達が寄進したという600基余りの石灯籠が整然と立ち並んでいて、いかにも荘厳な雰囲気です。
●東光寺
東光寺には、3代から11代までの奇数代の5藩主と夫人の墓がやはりペアで並んでいます。
こちらは唐破風の笠石を付けた角柱形の大きな墓石です。
やはりこちらにも500基余りの石灯籠が藩主を護るように並んでいます。
また幕末に「禁門の変」などの責任をとって自刃・処刑された藩士たちの墓も並んでいましたが、益田弾正・国司信濃・福原越後など知っている名前の墓碑がいくつもありました。
★万灯会
8月13日の迎え火は大照寺で、15日の送り火は東光寺で行われます。
この日は全ての石灯籠に火が灯されて、幽玄な世界が浮かび上がるそうです。
※次回は、「長州藩家臣団」について書いてみたいと思います。