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28 March 2008,Friday

信濃武士たちの行く末 (その三)

今回は
 『上杉米沢藩と信濃武士たち』の③(最終回)
 
 ●直江兼続と信濃   
                です。

●直江兼続と信濃
来年のNHK大河ドラマ『天地人』の主人公であり、上杉家の智将として知られた直江兼続も信濃と関係の深い人物であるということを、私も最近まで知りませんでした。
彼が生まれたのは木曽義仲ゆかりの信濃樋口氏を祖とする樋口家で、北信濃の須田氏や泉氏とも縁戚関係にあったようです。後に上杉景勝の命により名門直江家を継いだものです。
ドラマの原作は、火坂雅志の『天地人』ですが、これは謙信の次の言葉から来ています。
  
 “謙信公の曰く。
天の時、地の利に叶い、人の和とも整いたる大将というのは、和漢両朝上古にだも聞えず。
いわんや、末代なお有るべしとも覚えず。もっとも、この三事整うにおいては、弓矢も起こるべからず、 敵対する者もなし。”

 直江兼続の肖像

兼続といえば、戦国武将としては珍しく【愛】という文字を兜の前立てとしていた武将としても知られています。上杉軍の本陣には、「刀八毘沙門」「紺地日の丸」「懸かり乱れ龍」の三つの軍旗が翻っていたことは有名ですが、【愛】と書かれた直江軍団の大旗も伝わっています。

たまたま最近その旗の実物を見ることができました。
現在佐久市立近代美術館で『甲冑の美と宝』(佐藤忠彦コレクション寄付受納記念特別展)が開催されています。上杉家関係のコーナーも有り、「刀八毘沙門」「紺地日の丸」と並んで「愛」の大旗も展示されていました。
草書で書かれているので、私にはどうしても「愛」という字には読めなかったのですが、6月29日まで展示しているので、興味のある方は是非本物をご覧ください。
もう1つ現存している「愛」の軍旗は、上越市の林泉寺にあるそうです。

 直江兼続の兜


『天地人』を書いた火坂雅志は、【愛】の由来を、軍神の愛宕大権現または愛染明王への信仰を表すという説をとらず、謙信公の次ぎの言葉から取ったものと推測しています。

 “大将の根底とするところは、仁義礼智信の五を規とし、慈愛を持って衆人を憐れみ‥”

上杉謙信は、戦国の乱世には珍しく、利よりも仁愛と義を重んじた武将でした。
『天地人』では、真田幸村も重要な登場人物の一人で、謙信公の義の心を直江兼続を通じて受け継いだ人物として描かれています。
父である真田昌幸が徳川家康に対抗するため一時上杉景勝に臣従し、その証として幸村が人質として春日山城に預けられた時期(1585年から1年弱の間)があったので、そこで景勝や兼続との接点はあったでしょう。
しかし、後年の大坂冬の陣では、その幸村と兼続は、それぞれ大坂方と徳川方に別れて戦ったのでした。


★第一部のあとがき★
私が米沢上杉家と信濃武士の関係に興味を持ったのは、3年程前に『中世信濃武士意外伝 ~義仲から幸村まで』(長野県立歴史館編)を読んだのがきっかけでした。更に昨年長野県立歴史館で開催された《武田・上杉・信濃武士》という企画展と同館の村石正行氏の「信濃からみちのくへ ~わたりあるく信濃武士から~」という講演が、再び私の関心を呼び起こしました。
今回プログを書くに当たっては、これらを参考にさせていただいています。
 
尚、NHK大河ドラマ『天地人』では、直江兼続役には妻夫木聡が決定しているようです。
彼を余り知らない私には???なのですが、逆に彼がどういう兼続像を創り上げていくのかもまた楽しみでもあります。


※第二部の『松平(保科)会津藩と信濃武士たち』は、しばらく時間を頂いて、また書きたいと思っています。

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