昨年の10月に、江戸時代に信州の殿様の異動とともに他国(会津・出石・出雲)へ伝わり、その土地で独自に進化していった”信州里帰りそば”について書きましたが、今回は殿様の領地替えに伴って信濃から他国へと移っていった信濃武士について書いてみたいと思います。
◎第一部 上杉米沢藩と北信濃の武士たち
◎第二部 松平(保科)会津藩と伊那の武士たち
今回は、
『上杉米沢藩と北信濃の武士たち』の①
●川中島合戦後の上杉家と北信濃
●北信濃の武士たち
●大阪冬の陣と信濃武士 です
越後上杉家の家紋 (竹に飛び雀)
●川中島合戦後の上杉家と北信濃
武田信玄との数回に亘る川中島での戦いの後、飯山地域を除いて信濃は武田家の領地となりました。1578年に上杉謙信が没すると、実子が無かった謙信の2人の養子(景勝と景虎)の間で家督争いが起こりました(御館の乱)。景勝は信玄亡き後武田家を継いでいた武田勝頼と同盟を結び、景勝側が勝利すると信濃の上杉領を武田家へ譲りました。この時点で武田家の信濃一国支配が完成したことになります。
その後その武田家も1582年に勝頼が織田信長によって滅ぼされると信濃も織田の支配となりました。
上杉は、越中(富山)、信濃(長野)、上野(群馬)の3方面から織田軍に攻められ、存亡の危機に立たされましたが、同年その織田信長が本能寺の変により明智光秀に殺害されることとなり、この機を捉えた上杉景勝は北信濃に進出し領地としました。
信長の事業を継承し天下を統一した豊臣秀吉政権下の1589年ごろの上杉家は、石高92万(越後・川中島・佐渡・庄内)を有していました。
上杉景勝の像
1598年に豊臣秀吉の命により、上杉家は越後から会津120万石(会津・米沢・伊達・信夫・佐渡・庄内)へ転封となりましたが、大名としては徳川の240万石、毛利の120.5万石に次ぐ3番目の石高です。
同年秀吉が亡くなると、豊臣家で景勝と同じく五大老の一人であった徳川家康との対立が表面化し、1600年、家康による会津(上杉)征伐をきっかけとした関が原の合戦において上杉と同盟していた石田三成(西軍)が敗れた結果、翌年家康により米沢へ移とされ石高も30万石へ大幅に減封されました。
石高が四分の一となったにも関わらず、家臣をリストラしませんでしたので、藩の財政は極めて厳しい状況でした。
更に3代藩主が世継がないまま急死したため、上杉家は廃絶の危機に陥りましたが、会津藩主保科正之の尽力もあり15万石に半減されその後幕末まで続きました。
※上杉家と保科正之及び忠臣蔵で有名な吉良家との関係については、また機会があれば書きたいと思います。
●北信濃の武士たち
上杉景勝が越後から会津に転封となった際、北信濃の武士たちは景勝に従って信濃の地を離れ会津に移りました。芋川、市河、夜交(夜間瀬)、小田切、大滝、尾崎、清野、平林、東城、西城、今清水、仙仁(せんに)、島津、須田、綿内などの諸氏です。
更にその後の領地替えにより北信濃武士たちは会津から米沢へと移り、その子孫の多くは米沢で明治維新を迎えました。
この間に上杉家の石高は激減したため、藩士たちの生活は大変だったのです。
※初代米沢市長の大滝龍蔵氏は、飯山の地から会津を経て米沢に移っていった大滝氏の末裔とのことです。
●大阪冬の陣と信濃武士
1614年家康は徳川幕府を磐石のものとするために大坂城の豊臣秀頼を攻めた大坂冬の陣の折、上杉景勝も徳川への忠誠心を証明するため3,000人(5,000人など諸説ある)を率いて出陣しました。その中には市河、芋川、岩井、島津、香坂、夜交(よませ)、平林、井上といった信濃出身の武士たちも大勢いました。
特に、後藤又兵衛基次らを相手に冬の陣の激戦地であった鴫野表の戦いで先陣を命ぜられた(信濃衆の筆頭格である須田満親の次男の)須田長義は、この戦いでの働きにより二代将軍徳川秀忠から感状と短刀を賜りました。
結局この冬の陣で上杉軍は300人という多くの戦死者を出しました。
鴫野古戦場の碑
※この大阪冬の陣で、真田幸村が大坂城外に出城(真田丸)を築き、大活躍したことは有名です。