2回目は、今回の米沢行きで私が大変興味を感じた「万年塔」と「武家屋敷」について書きます。
万年塔
●万年塔
前回写真で紹介した武田信清の墓の左右にも並んでいますが、林泉寺をはじめ米沢には写真のような万年塔(万年堂)と呼ばれる墓が数多くあります。これは直江兼続が考案したと伝えられていますが、家形をしていて正面は格子状になっており、中は空洞で通常は小さな五輪塔が納められています。(というよりも風雪から五輪塔を守るために囲いをし屋根を載せたと言った方がいいかもしれない。)その大きさは大小様々で、四角の穴の数も6個、9個、12個、16個などがあります。
米沢の城下町を建設した兼続は、お寺を防衛上の重要な拠点として城下に配置しており、有事の際には、この万年塔を積み上げて防塁にしたり、火縄銃の銃眼としても考えられていました。また洪水の際には土を詰めて土嚢になるようにも考えられていたということです。全国的にも大変めずらしく米沢地方独特のものです。
先日たまたま星亮一氏(戊辰戦争の会津藩史を始めとした幕末維新史に関する多くの本の著者)のホームページを見ていたら、打ち捨てられた万年塔の写真と次のような記述がありました。
"5月25日は七ヶ宿街道を歩きました。山形県の二井宿には、○に十の字が入った土蔵がありました。何でも薩摩の島津勢がここまで押し寄せてきたとのことでした。当時の街道は実に細い道で、一人歩くのがやっとでした。四ツ目の石は墓石ですが戦争のとき、これを重ねて穴から鉄砲を撃ちました。"
※七ヶ宿街道は、通称仙台街道と呼ばれ宮城県の白石市と山形県米沢を結ぶ
※二井宿は、米沢市の隣の高畠町にある
●原方衆と武家屋敷
上杉家は、関が原の役後、会津120万石から、領地の一部であった米沢30万石に大幅減封になった時、家臣の俸禄を三分の一に削減しましたが、約5千人いた家臣をリストラしませんでした。
いかにも多すぎる家臣団は米沢の城下には入りきれず、たくさんの下級武士たちは城下外に配置されました。
彼らには街道の両側に短冊状に区画された150坪(間口6間、奥行き25間が基準)の屋敷が与えられ、屋敷の裏手を開墾させ、開墾した分はその者の所有とし、年貢も農民の半分にしました。また藩境警備の任にもあたらせ、半士半農のこの屯田武士たちは”原方衆”と呼ばれました。
彼らは農民と余り変わらない生活をしていましたが、田畑を耕すときも一刀を帯びて武士の誇りを持ちながら農作業にも励み、勤勉・粘り強い気風が培われたということです。
今回宿泊した白布温泉から米沢の市街に向かう途中で、南部地方(岩手県)の曲り屋のような茅葺の農家を眼にしましたが、それが原方衆の武家屋敷であることを、帰りの米沢駅で観光ポスターの写真を見てはじめて知りました。
原方衆の武家屋敷
武家屋敷と道路との境には、ウコギの生垣が植えられ、棘ある枝は防御の役割を果たすとともに、新芽は食用にされました。米沢藩では、食糧不足の時に備えて食用を兼ねた生垣として上杉鷹山が栽培を奨励したとのことで、現在も町のあちこちで目にすることができます。
ウコギの葉には、カルシウム、ビタミンA・C、ポリフェノール等が多く含まれ、おしたし、てんぷら、ウコギご飯、切り和え(胡麻・くるみ等)にして食べるのだそうです。
ちなみに米沢土産としてウコギせんべいとウコギの苗(下の写真)を記念に買って帰りました。
米沢は、鷹山や兼続の想いがいまだに受け継がれている町という印象を受けました。
今回の米沢紀行は、とりあえずここまで。