☆武家政権の古都‘鎌倉‘☆
「いい国作ろう鎌倉幕府」でお馴染みの古都。この歳になるまで訪れた事もなかったので、出張ついでに足を伸ばしてみました。
ちなみに「幕府」という名称は江戸時代以降の言葉のようで、当時は「征夷大将軍という東国ボスのいる居館のある場所で軍事政権の所在地」というのが正式名称。歴史の事実は小説よりも奇なり・・・。
【鎌倉は中世の要塞都市】
JR鎌倉駅を降りて鶴岡八幡宮までの参道を歩いたのですが、仲見世通りの混雑には仰天しました。確かにこの日は祭日でしたが、この賑わいは浅草浅草寺に匹敵します。しかも人力車までいるんかい!
【祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 驕れるものは久しからずや・・】
平家だけでなく、源氏の皆さんも例外なく当てはまりますw
簡単に平家滅亡から鎌倉政権成立までの歴史のおさらいをしてみましょう。
第一走者:木曾義仲・・・信濃で挙兵し北陸方面から進撃し倶利伽羅峠で平家軍を撃破。京都から平家を一掃するが烏合の衆の為京都の治安を悪化させてしまう。後白河法皇を幽閉し征東大将軍になる暴挙に出るが、朝廷より義仲排除の命を受けた源頼朝の派遣した源義経率いる鎌倉軍に破れて討死。
第二走者:九郎判官義経・・・天才的な戦術(またはいくさ馬鹿ともいう)で平家を滅亡させるが、壇ノ浦の合戦で安徳天皇の入水自殺に際し三種の神器を取り戻せず、挙句の果てに後白河法皇より勝手に官位を受けて兄である頼朝の怒りを買う。何故兄貴が怒っているのか理解出来ず奥州藤原氏を頼って逃げたために、藤原三代の滅亡を招く。
第三走者:源頼朝・・・父は平治の乱で朝廷に弓引いた源義朝。平清盛は当然頼朝に死罪を命じるが、清盛の継母が助命嘆願し頼朝は死を免れて伊豆に流され、30年間の臥薪嘗胆生活(それもすごい)。関東で引きこもりを続けた事が正解で、労せずして武家政権の始祖となる。しかし奥さん政子さんの実家である北条氏の陰謀が元で死亡。(落馬して死ぬなんておかしい)二代将軍頼家は途中で自我に目覚めるが反逆罪の汚名を着せられて謀殺される。
第四走者:源実朝・・・文武両道で非凡の才があり、朝廷との公武合体を画策するが北条氏にバレて甥の公暁に官位授与の式典最中に鶴岡八幡宮で暗殺される。
学校で勉強した鎌倉時代の歴史なんて「ちんぷんかんぷん」だった方にも分かりやすいでしょう(?)
「三代で源氏が滅んでその後の北条氏は何故将軍にならなかったか?」
そもそも北条氏は伊豆地方一帯の有力豪族であり平家の血筋。源頼朝を担いだのは妻の政子の実家という事もあるが、この男の将来に賭けただけのこと。(でも凄い先見の明)
源氏の血統でない北条氏は関東武士軍団の御家人の親分ではあっても、将軍になれば他の御家人は納得せず鎌倉政権は崩壊する。「執権」というのは実に賢い選択だったわけです。
【北鎌倉にある建長寺】
鎌倉幕府5代執権北条時頼が建立した禅宗寺院。広大な敷地を持ち、サザンがこの寺でライブしたことでも有名です。全ての建物を見るには2時間は必要かもしれません。
【鎌倉が要塞だった理由】
建長寺の半僧坊から裏山を登ると相模湾と鎌倉市街が一望できます。ふだん山登りには慣れているので朝飯前でございます。
三方を山に囲まれ前面は海。まさに要塞都市。
900年代には、武士の原点ともいわれた平将門が独立戦争を起こして失敗。その後も武士としての身分は低い時代が続く。保元の乱・平治の乱で登場した平清盛は、朝廷内の内部抗争のどさくさをうまく利用し武士として最高の官位まで上り詰めるが、自分の立場を忘れ天皇の外祖父になろうとして没落していく。
平家打倒の命令にも慌てずにチャンスの前髪をしっかり掴んだ源頼朝は、普通では考えられないラッキーの連鎖と東国武士団を味方につけて、念願の武士政権を確立しました。
この先、江戸時代が終わるまで武士の世の中が続くなんて彼も想像しなかったでしょうね。
歴史も違う視点で辿ると結構面白いものですよ!