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11 May 2009,Monday

高遠紀行

この五月の連休に、有名な小彼岸桜の賑わいも終わり静かになった高遠に行ってきました。
10年ほど昔に行った時は、まだ会津藩に興味を持ってはいなかったので、会津藩の藩祖となる保科正之と高遠との関係も深く知りませんでした。
本プログで『信濃武士と会津藩』について書く前に一度は訪れたいと思っていたのが、今回ようやく実行できました。

●保科正之と生母お静
高遠町歴史博物館の前庭に前回はなかった像がありました。保科正之とその母お静の像、そしてその間に三体のお地蔵様が立っていました。伊那市観光協会によりこの4月4日に建立されたばかりの新しく綺麗な像でした。

IMG_0020.JPG

石碑『保科正之公 生母お静(志津)』には次のような説明書きがありました。
   (長い引用になりますので、興味のない方は読み飛ばしてください)

【保科正之公(幼名 幸松)の生母お静は天正12年(1584)小田原で神尾家二女として誕生しました。成人して25歳のとき、二代将軍徳川秀忠公の乳母付き侍女として江戸城に奉公しました。容姿端麗にして聡明な素養を身につけていました。まもなく秀忠公の寵愛を得て子を身籠り、慶長16年(1611)に幸松は誕生しました。しかし秀忠公の正室お江与の方は大変嫉妬深く、お静と幸松は危険を避けるため、武田信玄の娘見性院と信松尼の愛情と助けを得て、江戸城内の比丘尼屋敷で暮らしました。
 元和3年(1617)幸松7歳の時に、高遠城主保科正光公の養子となり、母子ともにこの高遠に迎えられました。正之公は知将の武士たちから教えを受け、同時に四季折々に展開する大自然と人々の営みからも多くを学ぶ鋭い感性を研き、清貧な人格を身につけていったのでした。お静は秀忠公が他界後は浄光院と名を改め、母親の深い愛情を幸松にそそぎ大成を願っていました。
 正之公は21歳で高遠城主となり、25歳の時お静は52歳の生涯を高遠の地で終えました。江戸の目黒にある成就院は、三大将軍家光公が正之公を異母兄弟だと知らされた逸話のある寺です。そこにはお静が正之公の大願成就を願い奉納した金剛宝・金剛憧・金剛願の地蔵があり、これをお静地蔵と呼んでいます。
 正之公は7歳から26歳まで高遠で心身を鍛え凛凛しい青年に成長しました。その後家光公の信頼は益々深まり、高遠藩の人々を伴って最上藩から会津藩へと転封されました。
 兄家光公没後、慶安4年(1651)41歳からは江戸に招かれて、20年間四代将軍家綱公を助けて武断政治から文治政治へ転換を図りました。この間民衆の立場に立った人道主義的善政を実施し、幕政と藩政を両立させながら江戸幕府265年の基礎を築き上げました。
 高い理想と安全安心の世の中をめざした正之公と大願成就を願った慈しみ深い生母お静の顕彰碑をこの地に建立します。】

☆お静地蔵の由緒
【この三体のお地蔵様はお静の方がわが子正之の成長・栄達を祈念し、目黒にある成就院に寄進したものであります。
その願いが叶い、生涯を終えられたこの高遠の地に成就院のお静地蔵を縮小し建立いたしました。
お静地蔵は、今なお霊験あらたかな大願成就地蔵菩薩として信仰されております。】

保科正之については、改めて書きたいと思います。
なお博物館に『NHK大河ドラマ「保科正之」実現のための署名運動』のコーナーがあったので、迷わず署名をしてきました。
 伊那市観光協会の公式ホームページ「おいでな伊那」からもネットでの署名ができます。
  ⇒http://inashi-kankoukyoukai.jp/index.html


●民謡『会津磐梯山』の小原庄助さんと高遠
博物館の展示の中に大変興味深いものがありました。
小原庄助、そうあの民謡『会津磐梯山』に出てくる~♪小原庄助さん、なんでぇ身上潰したぁ♪~の庄助です。

展示されていたのは、保科家の紋章「九曜の星」と保科氏の始祖諏訪神氏の紋章「梶の葉」が描かれている盃です。
そして次のような説明書きがありました。

【高遠小原城主小原丹後守は武田信玄の重臣として活躍したが、武田家滅亡後、小原庄右衛門は高遠城主保科正光に仕えた。
正之が1643年会津若松城主になった時、孫の庄助も同行したが、後に武士の座を退いた。
その庄助が会津民謡『会津磐梯山』の人気男になったといわれている。
この盃は、庄右衛門が正之から下賜されたもので、代々小原家の家宝としていたが、「小原庄助伝」の発行を機に、後裔の西舘義雄氏から先祖出身の地に帰したいと小原区に贈られた。】

以前どこかで、小原庄助は元々は信濃の出だという話を読んだことがありましたが、このようにそれを裏付ける品があるというのは、初めて知りました。


博物館の隣に、江戸城大奥お年寄りという高い地位に居りながら罪を問われ高遠に流された絵島が、亡くなるまでの28年間幽閉されていた「絵島の囲み屋敷」(復元)もありますが、今回はパスします。


●小彼岸桜の後は八重桜
高遠城址の小彼岸桜はもう終わっていましたが、博物館の方から"「花の丘公園」の八重桜が今が満開だ"と教わり、早速行って見ました。とても綺麗でした。今回の高遠行きは花を見るのが目的ではなかったので、思いがけず得をした気持ちになりました。


●本家?高遠そば
以前このブログで、「信州里帰りそば」をテーマに書いたときに、保科正之公が会津に転封になった時に伝え、今も会津地方の名物の一つになっている「高遠そば」について書きました。近年逆に会津から高遠に里帰りし「高遠そば」として売り出していると聞いていたので楽しみにしていました。そこで「高遠そば」を食べられる『ますや』さんに行きました。
会津では辛み大根の絞り汁に醤油で味付けしたつゆでしたが、こちらは焼き味噌を溶いたつゆ(からつゆ)で食べるものでした。
妻と二人で三人前食べてしまいました。また会津の「高遠そば」も食べたくなりました。

 (写真のそばを食べ終わると、もう一枚ざるが出て一人前です。念のため)

ブログ「信州の里帰りそば」⇒http://www.life-as.co.jp/blog/2007/10/post_5.html


最後に、今回の高遠行きの主目的である高遠町図書館に行き、所蔵の保科公時代の「高遠城図(屋敷割り図)」と「会津藩諸士系譜」の一部をコピーしてもらいました。たいへん親切に対応していただき感謝しています。

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