先日長野市松代にある真田宝物館で『お殿様・お姫様の江戸暮し~江戸は天下のワンダーランド~』という企画展を見ました。なかなか面白い展示内容だったのですが、中でも特に「参勤交代」のコーナーに興味を持ちました。
言うまでも無く「参勤交代」とは、1635年3代将軍徳川家光が改正した武家諸法度に基いて始まった大名統制のための制度です。幕末の混乱期の1862年、実質的にこの制度が崩壊するまで約230年も続きました。
御三家など一部の大名を除いては、一年おきに参勤(江戸へ出府する)と交代(領国へ帰る)を繰り返すものです。また大名の妻子は、江戸に居住しなければなりませんでした。
松代城
松代藩の場合は、交代月は6月と決められていました。
北国街道(松代から矢代までは東脇往還:通称松代街道)と中山道を通り、江戸までの約53里(212 Km)を通常5泊6日の行程でした。
一日平均約8.8里(35Km強)を歩いたことになります。
江戸時代の人は健脚で、年寄りや女子供でも1日に6~8里、大人では10~12里も歩いたそうです。(1里は約4Km)
参勤交代の大名行列というと、”下に~っ、下にっ!”と静々進むイメージがありますが、実際は整然と列を組んで進むのは、江戸に入るとき、宿場に入るとき、他藩の城下を通過するとき、関所を通過するときだけでした。そうでなければ一日に10里も行くことはとてもできないですよね。
ある本によれば、”下にー、下に”という行列の制止声は、徳川御三家に限ったものだったとのこと。
7代藩主真田幸専の時代の資料から、松代藩の参勤道中の行程を見ると、
松代出発の初日は、次の通り。
矢代(屋代)で小休⇒刈屋原(戸倉)で野立※⇒鼠宿村(坂城)で昼休⇒上田で小休⇒海野(東御)で宿泊
※(注)「野立」は、景観を楽しみながら、お茶を嗜むこと
2日目以降の宿泊地は、坂本(安中)⇒倉賀野⇒熊谷⇒浦和で、6日目に江戸に到着しています。丁度、月曜日に松代を出発して、土曜日に江戸に着くという感じです。
資料によれば、9泊10日も掛かったこともありました。
この時は、加賀川(上田宿と海野宿の間を流れる神川)の増水により、鼠宿村に4泊も留まっています。この鼠宿村は、松代藩の飛び領地で、松代藩の私宿として松代藩のみの利用に限定されていました。
現在の鼠宿村 (森垣専務が写真提供してくれました)
お殿様が江戸に到着すると、湯島天神で装束を整え、まずは老中へ出府の挨拶をし、次に南部坂(赤坂)にある松代藩中屋敷に居る大殿様・大御前様・御前様に挨拶、その後上屋敷(霞が関)に入りました。ここでお殿様もようやくほっとできたことでしょう。
交代、つまり江戸から松代へ帰る行程も、参勤のときと同じ5泊6日の道中でした。
但し、宿泊地は参勤の時とは異なり、桶川⇒本庄⇒松井田⇒追分⇒鼠宿村でした。
松代藩の場合は、1週間程度の道中でしたが、もっと江戸から遠いお殿様たちはさぞかし大変だったことでしょう。
例えば、長州萩藩(山口県)毛利の殿様の場合は、江戸まで257里(1,028Km)あり、約1ヵ月という長旅でした。さらに江戸まで最も遠い薩摩藩(鹿児島県)の島津の殿様は、陸路で440里(約1.700Km)を40~60日も掛かったとのこと。毎年一回はこの超長旅をしなければならないのですから想像以上にご苦労なことだっでしょう。お殿様も体力がなければ勤まりません。
以上は、真田宝物館の企画展及び『松代 第21号』に掲載されている「松代藩の参勤交代」などを参考にさせてもらいました。
★またの機会に、加賀百万石前田のお殿様の参勤交代を例に、参勤交代道中の苦労話などを紹介できればと思っています。