前回(7月17日)は、松代藩真田のお殿様の参勤交代について書きましたが、今回は日本一の大藩加賀百万石前田のお殿様の参勤交代です。
参勤交代道中でのお殿様のご苦労を、我が地元でのエピソードもまじえて紹介します。
参勤交代行列図(一部)
金沢から江戸に参勤(または交代)するコースは三つありましたが、そのほとんど(190回のうち181回)は
金沢→越後高田(北陸道)→信濃追分(北国街道)→江戸(中仙道) というコースでした。
「北国下街道」と呼ばれたこのコースの場合、江戸までの距離は百十九里(約480Km)で、所要日数は12泊13日というのが一番多かったようです。一日当たり十里(40km)を歩いたことになります。
(東海道五十三次が、百二十三里を13~15日というのが標準だったのでほぼ同じです)
加賀藩の参勤交代行列の人数は、五代藩主の時の4,000人が最大で、その後は3,500人から2,500人と減りましたが、それでも日本一大規模なものでした。
1回当たりに掛かった費用も、現在のお金に換算すると5億円とも7億円を越えるともいわれ、藩財政にとっても大変な負担でした。
参勤交代道中のお殿様の苦労話 お殿様も楽じゃない
●難所の話
①【親不知】 【北陸道 現糸魚川市】
日本海の荒波が断崖下の道に迫っている親不知は、加賀藩参勤交代道中の中でも最大の難所でした。
「波除け人足」500~700人が麻縄を持ち、人垣を造って藩主を護り、馬は荷物を付けたまま通ることができないので、人間が馬に代わって荷を担ぎ、馬は空荷で通していました。
渡り終えると、江戸と加賀に注進の特使を飛ばし、難所を無事に通過したことを知らせたそうです。
※参考「親不知」の名前の由来
いくつかの説があるが、一説では、断崖と波が険しいため、親は子を、子は親を省みることができない程に険しい道である事から、とされている。(Wikipediaより)
②【横吹坂】 北国街道 坂城と戸倉の間
横吹坂は、千曲川の流れが突き当たる断崖の中腹を通る道で、かつ急で風の強い場所であったため、北国街道随一の難所と言われていました。加賀前田の殿様も籠から降りて歩いて通らなければならず、この難所を無事通過した時は、そのことを国元まで知らせたという逸話も伝わっています。
横吹坂を降りると十四本の榎が立ち並んだ千曲川の河畔に出ました。ここには当時茶屋があったといわれ、難所を通ってきた旅人に疲れをいやす場所を提供していました。この榎は現在一本しか残っていませんが、そのたもとには
“横吹や駒もいななく雪あらし” 二夜庵 (高桑蘭更)
という句碑がたてられ、当時の横吹坂越えの厳しい様子をよく表現しています。
※坂城町の『坂木宿 ふるさと歴史館』の展示より
『善光寺街道名所図会』 嘉永2年(1849年)刊より
中央左が横吹坂 中央右が葛尾山
●お殿様のトイレ休憩の話 少々下品な表現があり恐縮ですが…
十二代斉広の行列が信州上田の村はずれに来た時、にわかにストップがかかった。御側用人が「いかがなされましたか」と尋ねると、「用便休憩」と答えられた。昔から「小便一町、糞八町」と言われたもので、そのうえ袴は今日のスラックスと違って、ファスナーを下げ、ベルトを緩めるというように簡単には脱げなかった。行列はその間に八町(900m)も先に進んでしまうという。「早糞も芸のうち」というが、所作が鷹揚で緩慢な殿様は、早糞の芸はお持ちでなかった。
急場の桶洗役を勤めることになった鈴木甚蔵と三上喜内の両人は相談してみたが、あいにく家数もまばらで、そのうえ貧しい家ばかりなので殿様が使える雪隠を備えた家が見付からない。ようやく丸屋藤右衛門という農家の裏に、手頃な空き地を見つけ、よしず囲いを作り、土を掘り杉葉を敷いて電話ボックスのようなトイレを急造した。
斉広候はよほど嬉しかったのであろう。翌日丸屋藤右衛門は海野宿に召されて、銀二枚(約15万円)を拝領した。敷地をかりただけなのに、ギネスブックに載るようなトイレ代といえよう。
※『参勤交代道中記 ~加賀藩資料を読む~』 忠田敏男著より
加賀藩の参勤交代の様々な数字やエピソードなどが紹介されていて大変面白い本です。
参勤交代についてもっといろいろ知りたいという方にはお勧めです。
※前回の『松代藩真田のお殿様の参勤交代』はこちら⇒http://www.life-as.co.jp/blog/2009/07/post_74.html