あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い申し上げます。真田家家臣「横谷重則」です。
いよいよ我が横谷家の歴史についてお話します。
昨今真田歴史、歴女ブームでもありますので、皆様少しは、関心があると思います(??)
私のルーツである横谷直系は、上州沼田藩真田家に仕えていました。(現在の群馬県沼田市)
もちろん松代藩真田本家にも横谷の分家が仕えていましたので、北信にも横谷さんがいらっしゃいます。遠い遠い親戚ですね。
↑横谷家に伝わる真田昌幸からの感状。慶長5年関が原の戦いを前に、昌幸が信之との会談を終えた事が記されています。(昌幸の花押に注目)
【沼田藩真田氏に翻弄された先祖の苦労】
沼田藩は三代目真田信利の時に失政を幕府より咎められて取り潰しとなったため、我が横谷家も浪人生活を余儀なくされました。
その後、今の群馬県嬬恋村にあった大笹関所の関守を幕末まで勤め、明治維新を迎えた後、今は上田に住んでおります。
維新後貧乏いたしましたので、家に伝わる古文書だけを持って村を出ました、東大史料編纂所や群馬大学の先生が調べに来るような古文書がたくさんあります。
中でも、真田昌幸、信之からの書状や真田時代の沼田城下図(住宅地図)も残っています。
【家名を残す為に横谷家も分かれた】
関が原の戦いで、真田昌幸/幸村は西軍(石田方)に味方し信之は東軍(徳川方)につきます。
当時は家名存続のためにこうして敵味方に一族が分かれるのは仕方の無いことで、我が横谷家も長男は信之に、次男と三男は昌幸に仕えました。
三男である横谷庄八郎重氏はそののち幸村に仕え、関が原の敗戦後に九度山にも同行しました。
そして幸村とともに大阪の陣で活躍し、夏の陣で討ち死にしています。(横谷家系図より)
大阪夏の陣で横谷重氏が幸村とともに討ち死にしたことを伝えた書簡
この方が真田十勇士のモデル「日の本一の兵」の一人です。
真田十勇士は、小説の世界のことですが、実在の家臣が今に伝わっていると成るとますます興味も湧いてくると思います。
私も、ご先祖様を見習って「日の本一の兵」に成りたかったなー