◆青木村に残る真田信繁(幸村)の長姉「村松殿」夫妻の居館跡◆
某国営放送局の大河ドラマ「真田丸」が毎回楽しみという方が多いのは嬉しい。受信料払ってて良かった・・(笑)
せっかく真田の郷の近くに住んでいるので、地元ならではの「真田丸」関連の史跡をご紹介しましょう。
今回ご案内するのは「村松殿館跡」(むらまつどのやかたあと)。場所は小県郡青木村村松。
ドラマでは木村佳乃が演じる大泉信幸と堺信繁兄弟の長姉である「松」殿の居館跡と伝わる場所。
最近新設された案内看板。県宝の宝筐院塔と抱き合わせだが、明らかに真田丸効果を期待して作られたようだ・・(笑)
【立地】
現在の国道143号線の村松は嘗ての東山道の浦野駅(うらののうまや)に隣接する場所で、古くからの交通の要衝であった。戦国時代には保福寺峠や青木峠(地蔵峠)を介して筑摩郡と境を接する場所ということもあり、街道筋を抑えるために黒丸城が築城され、居館の背後には特異な山の嶺に築かれた子檀嶺城が聳えている。
上田市より松本市へ向かう国道143号線を走り、青木村役場入口の看板を右折して進むと誘導看板が立っている。
T字路の角に「村松の宝篋印塔」(長野県宝指定)の東屋があるので、その上の地籍が「村松殿居館跡」だという。
年代物の標柱。「この上が真田幸村公義兄小山田壱岐守茂誠公館跡」とある。
【館主・館歴】
面倒なので、ウィキペディアに記載されている「村松殿」を引用転載させていただくことにする。
村松殿(むらまつどの、永禄8年(1565年) - 寛永7年6月20日(1630年7月29日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての女性。小山田茂誠の正室。真田昌幸の長女。子に小山田之知。
永禄8年(1565年)、真田昌幸の長女として誕生。母は山手殿(遠山氏とも)。名は於国。弟に信之(信幸)・信繁(幸村)らがいる。
天正10年(1582年)前後に甲斐国都留郡の国衆・小山田氏の一門である小山田有誠の子・茂誠に嫁いだ。この婚姻が縁で茂誠は後に昌幸の家臣となり、信之の家老となった。また、夫・茂誠が昌幸から小県郡村松(現在の青木村)を領地として与えられ、そこに住んでいたため、村松殿と呼ばれた。なお、1582年に武田家が滅亡した後、織田信長に臣従した際に、真田昌幸は娘を人質として安土城へ送っているが、村松殿であった可能性もある。
長姉として、信之や信繁に敬愛されていたらしく、信繁が彼女宛てに書いた手紙が残されている。
寛永7年(1630年)6月、死去。法名は宝寿院殿残窓庭夢大姉。
小山田茂誠が真田昌幸よりこの地を与えられたのが天正十八年(1590)とされているので、少なくとも天正壬午の乱の時の村松殿の呼び名は違っていたと思われる。
ドラマ「真田丸」では琵琶湖で身投げして船頭(または漁師)に助けられ二年間記憶喪失となった筋書きを採用している。これは江戸時代後期に真田氏の軍記ものとして書かれた「加沢記」が出典元であろうが、加沢記も甲陽軍鑑と同じく信憑性には疑問があるらしい。
南北朝時代の宝篋印塔(県宝指定)は大変価値のあるものだが、それよりも松殿の人気にあやかる戦法である・・(汗)
【館跡】
説明板の地図を頼りに歩いてみると、居館跡と推定される現地は南向きの高台で、中心部には石垣を施した立派な民家が立っている。小山田家は関ヶ原の合戦後、信幸の松代移封に伴いこの地を離れている。
往時を偲ぶ遺構は無いが、日当たりの良い高台の一等地で、昌幸が小山田茂誠夫妻に知行地として与えたのは合点のゆく話である。
居館跡には現在立派な民家が立っている。私有地なので無断立ち入りは厳禁です。
東側から見た居館跡。遠くの山は夫神岳(標高1,250m)
加沢記によれば、琵琶湖に身投げした松殿は、二年後に記憶が戻り真田家に復したという。
小山田茂誠はその後真田信之の家臣となり、大阪夏の陣では病に臥した信之の名代として出陣した信吉、信政兄弟に従い従軍。(その際、親交のあった信繁から村松殿宛ての最後の手紙を受け取った事は有名) その後松代藩においては代々次席家老の家柄となった。
※主席家老は、真田パパ幸の叔父で沼田城代だった血の気の多い危険な老人「矢沢頼綱」の嫡子「矢沢頼康」(ドラマでは信繁の守役)から代々矢沢家が踏襲している。
さて、「真田丸」では、茂誠と松夫妻のその後がどのように描かれるのか楽しみですね。
そんなに遠くない場所なので、話のタネに行ってみるのも面白いと思います。場所は下の地図。
ちなみに、長野市松代町には松代藩へ移った小山田茂誠・村松殿夫妻の屋敷が今でも残っています。
そちらもついでに行ってみましょうネ。
長野市松代町に残る小山田茂誠の屋敷。(現在も子孫の方が住んでおられます)
例のごとく、スタッフブログではありえない長々と拙い文書を読んでいただき、かたじけない・・・・・(笑)